大晦日の朝、慶太さんとはスタート地点の宇都宮タワーに向かう始発列車の中で落ち合う約束になっていた。ここ数日の冷え込みからすると随分ましな寒さではあったけれど、走って丁度良い格好をしているととても体が冷える。

「1日こんなに寒いのだろうか...」

白い息を吐きながらホームで体を擦っていると、時間通りに列車はやって来た。窓の中に明らかにランナーと思しき影を見つけ、その車両に僕は少し早足で駆け寄り、列車に乗り込んだ。

「おはようございます」

お互い挨拶を交わしてみたものの、これから100キロ一緒に走るのだと思うと急いで何かを話す必要もなかった。スタート地点最寄駅までは2駅。しばらくは離ればなれになるであろう暖かさとの別れを惜しむように、座席にぴったりと身を寄せていた。しかし、残酷な程あっという間に目的の駅は近づく。列車はスピードを緩め始めた。その時だった。ふと少し離れた席から一人の女性が近寄って来た。

「がんばって下さい。これ、良かったら」

そう云って、女性は僕たちにカロリーメイトふたつを差し出したのだった。背中に付けたノボリが目に入ったらしい。今年最後のトレッキングに行くであろう出で立ちのその女性は、自分の食料をこの馬鹿なふたりに分け与えてくれたのだ。

「あ、ありがとうございます。がんばります」

スタート前からこんな温かな応援をもらえると思ってもいなかった僕は、少し詰まり気味にそう云うのが精一杯だった。本当に冴えない受け答えをしてしまったものだ。でも、ただそれだけのコミュニケーションが随分と僕たちを勇気づけたことは確かだった。列車を下りた後も冷たい風が吹いていたが、スタート地点までの移動ももう寒いとは思わなかった。



そして、この心温まる応援を皮切りに、スタート後も仲間からの応援が途切れることはなかった。静かに寂しくスタートすると思っていた朝6時の宇都宮タワーにもラン友、ふと気がつけば交差点にラン友、この人放っておくと全部走っちゃうんじゃないかと思うくらい並走してくれるラン友。結局、30キロ過ぎまでほとんど誰かと一緒に走ることができた。ありがたや、ありがたや。



思うに、ウルトラマラソンのキツさは「淋しさ」なのではないだろうか。レースにせよ自主練にせよ、100キロのコースともなると賑やかな町並みが続くはずもない。視界にヒトがひとりもいないことだってある。独り淡々と歩を重ねるだけ、ひたすら自分と対峙し続ける時間は想像以上に堪える。だから、応援してくれるヒトや傍を走っているランナーとのコミュニケーションはとても大切なのだ。



フルマラソンの大会で見ず知らずのランナーに声をかけることは殆どないが、チャレンジ富士五湖ではたくさんのランナーと話した。エイドで一緒に補給をしたり、ペーサー役を交代しながら互いの折れそうな気持ちを支えたりもした。たとえ走れず歩く羽目になっても、誰かといると恐ろしく膨大に思えたゴールまでの距離・残り時間も苦にせず消化できた。



ただ声を掛けてもらえるだけでもいい。フルやハーフの大会では時折応える余裕がないこともあるけれど、ウルトラは全くの別世界。もうリタイアしようかと思っていても、たった一人「がんばれ」の言葉を投げかけてくれるだけで、もう何キロか走れるように思える。そうして、ゴールまでの道程を繋いでいくのだ。



この日も、そんな沢山の応援に支えられて走っていた。いや、むしろ、応援がなければ早期企画終了の危機であったと云っても間違いではないのだ。実はこの時、一人の男がとても苦しんでいたのである。数々のウルトラマラソンを走りタフネスには定評のある慶太さん、その人である。平然とした顔つきとは裏腹に内臓をやられ、走ることが困難になっていた。(理由は皆様のご想像にお任せする。師走だし、人付き合いの良い慶太さんだから当然の帰結だ)



走っている時は僕もそこまでとは思っていなかったのだけれど、後々話を聞いてびっくりした。「20キロ地点の小山駅で電車に乗る」という選択肢を真剣に検討していたらしい。しかも、スタート直後から気持ち悪い状態が続いていたという。きっと「この先何十キロも同じ状態かもしれないという」不安と戦いながら、気持ちが折れる手前ギリギリの線で踏ん張っていたのだ。



想像するだけでも恐ろしい。僕だったらすぐに逃げ出すかもしれない。けれど、慶太さんは逃げなかった。一歩一歩着実に歩を重ねた。県境を越えた頃、仲間もいなくなった。それでも、状況が好転するのをただただ待ちながら慶太さんは走った。ここまでの仲間の応援を裏切るわけには行かない。きっとそんな思いでただただ前に進んだのだろう。



僕は付かず離れず少し前を走るように心がけた。こういう時は引っ張り役に徹するしかない。どうにか55キロ地点まで、休憩ポイントの道の駅ごかまで辿り着かなければ...。暖かい道の駅で栄養を摂って休もう。そうすればきっと慶太さんも回復する。根拠はなかったがそう信じて走るしかなかった。

「とにかく道の駅へ、そうすればきっと...」


しかし、待ち受けていたのはあまりにも無情な展開だった。仲間を裏切らんとして走ったふたりの思いを打ち砕く、ある裏切りの光景が待ち受けていたのだった。