「あと一刻...」

薄暗くなった街道をひたすらに走っていた。最近では追い剥ぎも多く黄昏時に人通りは少ない。宿場へと急ぐ与兵衛の息は僅かに早くなり、懐に隠した文に胸が当たる。鼓動しているのは心の臓か、それとも、文の方なのか。肩に掛けた飛脚箱には、何よりも大事な守るべき荷が収めてあったが、今回ばかりは、その文が一等に大事なものであった。

「おイネさん、待っていてくれよ」

継飛脚から通し飛脚となって十五年は経つだろうか。宿場間を往来していた新人の頃とは違い、険しい道を必要とする秘密を運ぶ機会が増えた。いくつか偽りの名前を持つようになり、知り合う者よりも与兵衛を忘れていく者の方が多くなった。無口になり、人に心の内を伝えることなど無くなった。

出立の三日前、そんな与兵衛が訪ねたのは飛脚所の先にある善福寺の住職であった。一頻り江戸の様子を聞かれた後、ばつが悪そうに自分の気持ちを語った。九十里も離れた江戸で旅籠の娘 イネに惚れてしまったこと。イネに気持ちを伝える文を書きたいということ。あと二度江戸へ走ったら引退する..

ふと、スマホが鳴った。スマホ?江戸?雨が降ってる?住職は?

「あれ?夢?」

徐々に現が帰ってきた。けれど、いつもなら立ち消えてしまう夢が、与兵衛の思いがまだ鼓動していた。そうだ、今日は仕事が休みなんだ。どうせ梅雨空で走れもしない。もう一度寝て、夢に戻ろうと思った。けれど、くっきり頭が冴えてしまった。

「ああ、もう!」

ベッドから這い出して着替えた。いつも通りの休日をスタートさせようと、熱い濃いコーヒーを飲んで心地良い溜息をついた。それなのに、モヤモヤが消えなかった。与兵衛がどんな文を書いたのか(実際は住職が代筆したのだろうけど)、どんな道中だったのか、おイネさんは一体どんな人なのか、果たして与兵衛の気持ちはおイネさんに届いたのか?結局、釈然としない気持ちに取りつかれたまま、その日は終わってしまった。

「んん〜、ああ」

翌日、ジム帰りに立ち寄ったマクドナルドで冷めたコーヒーを飲みながら観念した。昔に比べて、夢を見る頻度が減った。続きを見られる可能性は低い。だとしたら、与兵衛の思いに近づくには、その顛末を感じるには、やるしかない。九十里走ってやろうじゃないの。なんだよ、尾張から江戸か?いつやるの?

「ああ、そういういことか...」

こうして、止まっていたはずの時計が動き出した。