遡ること4時間前、宇都宮駅の改札口、電車に乗るには到底似つかわしくない格好で僕はそこにいた。行き交う人の目も気にせず、義父は手作りの横断幕を広げ、激励をしてくれた。義母は、地元ラジオ局の取材に「あら、いやだ」と気恥ずかしそうに逃げるそぶりをしながらも、きちんとマイクに声が届く声量で質問に答えている。そんな光景を妻はにこやかに眺め、僕はそんな妻を眺め微笑んでいた。

  1年前、名古屋から東京へと走り終えた時には、新しい家族に見送られ、また勝手にウルトラマラソンのスタートラインに立つことになろうとは予想もしなかった。名古屋-東京の旅を終えた2週間後、僕は彼女に出会った。そして、その10日後、はじめてのデートの後、僕は結婚を申し込んでいた。ちっぽけなるワタクシという事象は、自然とそんな気持ちになっていた。ああ、人はこうやって結婚するのかと、妙に納得が行った。疑う余地のない愛着を彼女に感じていた。だから、何かを戸惑う必要なんてなかった。半年という交際期間など気にもせず、いくつかの通過儀礼を越えて、僕たちはクソ暑い8月に入籍した。

 引越をして二人暮らしが始まってからは、お互いの生活様式を中和することに多くの時間を費やした。数えきれない喧嘩と僅かばかりの仲直りを繰り返しながら、お互いの趣味の時間も、休日を楽しむ余裕もないままにあっという間に時が過ぎて行った。暑い暑い夏が終わり、ようやく生活らしさが出て来たのは彼岸過ぎだった。

「今年は走らないの?」

 ある日、妻は僕の目を覗き込んで、そう尋ねた。当然、走るつもりなんてなかった。ふたりの生活もまだ軌道には乗っていない。結婚式はしないつもりだったけれど、写真を撮って、家族揃って食事会をしたい。その計画を立てる方が先だった。だから、質問には特に答えも出さないまま。休日は、写真スタジオや食事会場を周って、プランや予算とにらめっこ。納得のいくイベントにするために相談を重ねた。しかし、なかなか満足な形が見出だせなかった。よくよく検討してみると、写真を撮って食事会をするのと、小さな結婚式をあげるのがコスト的に変わらない。行き詰まり、時が経つに連れて、ふたりの思いも変わっていった。

「インスタントに儀式をしても、誰も喜べないのかもしれない。長い時間を経ても消えない思い出にしたい。」

 気が付けば世界遺産日光の社寺のひとつ日光二荒山神社での挙式を選んでいた。これなら思い出の場所が消えてなくなることもないだろう。折に触れて、ふたりで訪れることもできる。相談すると、どちらの両親もほっとした様子だった。やはり、式を挙げて欲しいという気持ちだったのだろう。気持ちが決まると早かった。すぐに挙式の予約をした。

「ちょうどいいじゃないの!」

 日光の社寺での結婚式を決めると、頭の隅に追いやられていた僕のマラソン魂が、良からぬことを企み始めた。なんと目聡いことか、地元紙に日光東照宮400年式年大祭を記念したイベント「日光社参ウォーク」の記事を見つけた。江戸時代、徳川歴代の将軍が参詣した150キロの道程を7日間で歩くというイベント。

「ふふ、そんなの勝手にウルトラの手にかかれば...」

 夜通し聖地日光への道を一気に走り切ってしまおう。トータルの距離では去年には及ばないが、未知の領域である「寝ずのラン」。見たことのない自分にまた会えるような気がして心が高鳴った。

 ただのこじつけだと云われるかもしれないけれど、ふたりの結婚生活が順調続いていくよう、願掛けの儀式にしたいという思いもあった。こんな「勝手」に巻き込まれる妻からしたら、いい迷惑なのかもしれない。でも、僕は、ありのままを包み隠さずにさらし、どうしようもなくちっぽけで猥雑な自分自身を知ってもらいたかった。

 正直にその事を告げると、妻は快諾してくれた。僕は計画を練り始めた。社参ウォークを主催していた地元紙に問い合わせると、快くルートを教えてくれた。そして、さらには事前告知の記事まで掲載してれた(この記事が元になってラジオの取材も受けることになった)。

 考えてみれば、昨年の名古屋-東京の旅は家康公の生家である岡崎城や、お膝元である愛知・静岡から江戸城への旅。その翌年に徳川家康公の墓所である東照宮へと参詣するのも必然に感じた。

もうやらないと思っていたけれど、全ての糸は僕の方に伸びてきて、固く結ばれた。こうして、性懲りもなく「勝手に日光社参」が始まった。


(つづく)